理解を得ようということはおこがましいことなのか
2006年8月17日前にも言って(書いて)いるが、私は、友人には病気のことをオープンにしているし、してはいけない人(ところ)では完全に口を閉ざしている。
だがやはり、理解してもらおう、理解を得ようというのはおこがましい行為なのだろうか。
「仲の良い友人だ」と思っていた相手にも理解されない。
→付き合いが遠のく
「家族の理解が必要です」と医者は言う
→遠く離れた田舎との意思の疎通は不可能であり
田舎ゆえに情報がなく理解されない
「病は気からというじゃないか」
→気力で治るものならとっくに治っている
こういうある種の『内部障害』は見た目にはわからないので理解しがたいのはわかるが、だからといってこのままでいいのだろうか。
どこかが悪いなら検査をしたら数字が出てくるものだろうけど、私は特殊な体質らしく、数値には一切反映されない。反映されるのは重症化したときのみ。
そう、亡くなった父もそうだった。
まだ結果は出ていないけれども、多分そういう類の体質遺伝があるのかもしれない。
表立って「○○病」ですね。と数字で診断されるような要素は今のところ無いけれど、一歩間違えれば命に関わる爆弾に変化する数字を持っている私は、常に緊張感に追い立てられている。
いっそ発病してくれたほうがこの不安と原因の特定できない症状から楽になれるのに。
だがやはり、理解してもらおう、理解を得ようというのはおこがましい行為なのだろうか。
「仲の良い友人だ」と思っていた相手にも理解されない。
→付き合いが遠のく
「家族の理解が必要です」と医者は言う
→遠く離れた田舎との意思の疎通は不可能であり
田舎ゆえに情報がなく理解されない
「病は気からというじゃないか」
→気力で治るものならとっくに治っている
こういうある種の『内部障害』は見た目にはわからないので理解しがたいのはわかるが、だからといってこのままでいいのだろうか。
どこかが悪いなら検査をしたら数字が出てくるものだろうけど、私は特殊な体質らしく、数値には一切反映されない。反映されるのは重症化したときのみ。
そう、亡くなった父もそうだった。
まだ結果は出ていないけれども、多分そういう類の体質遺伝があるのかもしれない。
表立って「○○病」ですね。と数字で診断されるような要素は今のところ無いけれど、一歩間違えれば命に関わる爆弾に変化する数字を持っている私は、常に緊張感に追い立てられている。
いっそ発病してくれたほうがこの不安と原因の特定できない症状から楽になれるのに。
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